思考

「エリートの加害者」が批判を加速させる…防衛的帰属仮説のワナ

発行責任者 (K.ono)

 昨年9月、2019年に池袋で起きた自動車の暴走事故に関する判決が出ました。

「エリート」がバッシングを加速させた

 事故により松永真菜さん(当時31)と娘の莉子ちゃん(当時3)が亡くなり、運転していた飯塚幸三氏は自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)の罪に問われました。一方で旧通産省工業技術院の元院長という経歴、身体拘束を伴う逮捕を免れたことなどから「上級国民」という言葉が世の中を駆け巡り、大衆化されるに至っています。

 一審で禁固5年の判決が出され、飯塚氏は控訴せず刑が確定。事故による過失が明らかで勝ち目がないこともありますが、世間の飯塚氏に対するバッシングの大きさから家族などへの影響も鑑みての控訴せず……だったのでは、という声もあります。

 誰もがうらやむエリート人生の最後にそのすべてが瓦解するような出来事を起こしてしまった飯塚氏。しかし、同情の声は極めて少ない状況にあります。女性と幼い子どもが犠牲になった点、飯塚氏が際立ったエリートだった点など、単なる被害者と加害者だけでなく、世間の反感がより増幅された部分があります。

 ただ、飯塚氏が仮にエリートでもなく、最初から逮捕されて妙な疑惑もなかった場合はどうでしょうか。同じように多くの人を巻き込むバッシングが巻き起こったでしょうか。批判の大きさに、多少なりとも影響はあったのではないでしょうか。

 ある事件や悲しい出来事が起こった時、そこには「当事者」がいるわけですが、その多くは「被害者」と「加害者」がいます。人は双方を見比べた時「自分に似た部分のある人物に自らを重ね、そうでない者の責任を過大に評価する」傾向があります。

「当事者になりやすい方」に感情が引っ張られる

 仮にある交通事故が起こった際、被害者(多少の不注意もあり、娘が自動車事故により命を奪われた)と加害者(運転ミスも否定はできず、死亡事故を起こしてしまった)の双方を見比べ、自分が“当事者になる可能性”の高いほうに感情移入してしまう傾向があるということです。極端に言えば「子どもがいる親」であれば当然被害者よりの気持ちになり、「頻繁に車を運転する独身者」であればまた違う感情を持つ可能性があるのです。

 判断した人々が「自分が当事者になりやすい方」に感情が引っ張られ、そうでないほうの責任を重く求める傾向……当事者になるやるせなさを回避しようとする思考を「防衛的帰属仮説」と言います。

 飯塚氏の場合は明らかな過失、さらに一般大衆の共感には程遠いエリートなどというバックボーンから、大衆からすれば「自分がなりえる当事者」の範疇にない場合がほとんどでしょう。亡くなった2人の被害者やその家族に強い共感ややりきれなさを「上級国民」という要素が増幅させてしまった部分もありそうです。

 この防衛的帰属仮説は、飯塚氏の件においては客観的に見てもバッシングが過熱して当然、という印象があるものの、事故や事件の中身によっては「正しい判断ができなくなるリスク」をはらんでいます。

気持ちの偏りが生じてしまう

 例えば性犯罪です。強制わいせつなどの被害者の多くは女性で、加害者は男性です。そうした加害者の責任を考え法的に判断する大多数は「男性」です。こうなると「当事者になりえるのは加害者側」ということになります。この点で防衛的帰属仮説が強く出ると、責任の重さにブレが生じたり、誤った判断につながらないでしょうか。これは児童虐待(加害者は大人、判断するのも大人)なども同じことが言えるでしょう。webサイト「エアトリ」の2020年の調査では「現在の日本の親による「児童虐待」に対する刑罰についてどう思いますか?」という質問に66%が「軽すぎる」と回答。世間全体の印象と判断する人達との間には開きがあるようです。

 これは男性の判断力が良い悪いということではなく、近い存在に気持ちの偏りが生じてしまうものだということです。ショッキングな出来事に対し、個人が本当の意味でフラットな考え方を示す難しさを表しています。

 裁判員制度などもそうですが、できる限り属性の違う人を集め、さまざまな判断をしていくのが理想なのは確かでしょう。
(文/谷口譲二)