昨年8月、名古屋市長の河村たかし氏が、表敬訪問した東京五輪女性メダリストの金メダルを「噛む」という行為をし、世間から多大なるバッシングを受けました。
セクハラやパワハラは水面下で多発
「セクハラだ」「女性蔑視を感じる」「コロナ禍であることを認識してほしい」「権威主義の塊」などなど厳しい意見が相次ぎました。メダルにキスをしたり噛んだりするのは過去に選手の間で流行っていましたが、あくまでそれはメダリスト本人がやるからこそ許されるもので、無関係の年配男性が公の場でやることではないでしょう。
職場のセクハラやパワハラなどは今も水面下で多発しているのが実状でしょう。
コンプライアンス遵守が叫ばれ、ジェンダー平等なども浸透している現在でも、セクハラやパワハラが消えることはありません。
最近では就活を利用し、先輩社員が入社を考える女子学生に肉体関係を求めたりする問題も多発しています。「セクハラはオヤジのもの」というのは誤解で、年齢関係なくセクハラやパワハラまがいの出来事は起こるという一つの例でしょう。
職場のパワハラやセクハラ、河村氏の問題も、立場を利用した(勘違いした?)権威主義によるところが非常に大きいです。こうした問題を常態化する組織が行き着く先は「ブラック企業」であり、いずれ根元から瓦解する運命にある可能性が高いです。
伝説的経営者・ジャック・ウェルチ氏
こうした状況に関し『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)にて著者の鵜飼秀徳氏は「ガタピシ」と表現しています。
「ガタピシ」というと、建物がひび割れるような印象ですが、実はれっきとした仏教用語が語源であり、本当は「我他彼此」といいます。「我(自分)」と「他(他人)」、「彼(彼岸の世界)」と「此(迷いの世界)」という二項対立を示しています。
仏教において目指すべき「無我」や「涅槃」と真逆にある「迷い」。これは悟りの世界とはまったく別の方向であり、現代社会においてはそれがネガティブな思考などにつながります。
ネガティブな思考とは「自分を正当化し、他人を否定する」ことに心血を注ぐことであり、同著ではそれが「自己防衛の裏返し」としています。それは確かにその通りといえるでしょう。
米国の大手メーカー・GEの伝説的経営者・ジャック・ウェルチ氏は柔軟な思考と手腕で尊敬を集めていた人物です。彼は過去、GEが買収した企業がその直後に不祥事発覚となった際など、直接的に自らに非がない場合でも「不祥事の原因は私」と、CEOとしてその責任を受け止めた行動をしています。これは「自己正当化」とは真逆の言動といえるでしょう。
強き者に対する弱い人間の「嫉妬や嫌がらせ」
そんなウェルチ氏は「自信のある者は異論を歓迎する」という傾向を語っており、つまり、自己正当化に生きるのは「臆病者」と断じています。
『ビジネスに活かす教養としての仏教』では上記から、釈迦が語ったとされる「勝利者が勝ち取るものは敵意」と結論づけています。つまり、多くのパワハラやセクハラは、強き者に対する弱い人間の「嫉妬や嫌がらせ」から来ている可能性が高いということです。
仕事でも、超がつくほど優秀な部下に、仕事のできない先輩・上司が嫌味や嫌がらせをするという話はよく聞くところです。こうした構造を覆すのは、やはり非常に難しいといえるでしょう。
結局のところ、一人ひとりが「自己研鑽に向かい、他者を傷つけない」ことを意識するというのが出発点。それは自分が“加害者”にならないための行いであり、逆に“被害者”になってしまった際には自分の責任を感じる必要は一切なく、その会社や環境を思い切って飛び出すことも視野に入れるべきかもしれません。
(文/谷口譲二)