2022年も半分が過ぎましたが、新型コロナウィルスの猛威がまたも日本社会を震撼させています。全国的に感染者は増加傾向にあります。
流行語大賞となった「無縁社会」
以前ほど致死率は高くないようですが、ソーシャルディスタンスや自粛・巣ごもり生活によって、取り残されてしまう人も再び問題視される可能性はあります。未曾有の出来事によってこれまで誤魔化せてきた孤独が表出化している人も増えているのではないでしょうか。
2010年にNHKがドキュメンタリー番組で用いた造語で、その年の流行語大賞となった「無縁社会」という言葉が、コロナ禍で改めて注目されています。
高齢者に限らず、少子高齢化や核家族化、未婚率の上昇、地域のつながりの希薄化などによって「人の孤立無援」が10年ほど前に大きな注目を集めましたが、今もなお世間の耳目を集める言葉です。新型コロナウィルスの蔓延による自粛・ステイホームによって、この無縁社会が加速しているのではないかという見方もあります。
無縁社会の代表的な事象が「孤独死」ですが、この言葉から高齢者、現役を退いて社会とのかかわりがなくなり孤独になった情景が「思い浮かぶ人が」多数派ではないでしょうか。
しかし実際には60歳以下の現役世代でも他人事ではないようです。孤独死から貧困をイメージするのも決して正しくはなく、高級タワーマンションで遺体が見つかる例もあるようです。
こうなると無縁社会、そして孤独死などは「誰にでも起こり得る」ということです。では社会的なつながりを持たないことによる孤立をどう考えていけばいいのか。
「都市」という社会構造の問題
インターネットの隆盛によって、趣味や自分の興味のあることで人とつながれるチャンスは大きく増えたように思います。言葉通り「人とつながる」というだけなら、ネットを通して地域のコミュニティや集まりに参加したり、運動やイベントのサークルに近づいてみたりということも楽にできますし、知り合いになって友人に発展するということもあるでしょう。都市部であればなおさらです。
ただそうして作り上げた関係の友人に「本当に困った時に助けを求められるのか」となると、話は変わってくるでしょう。結局は関係の「深さ」が重要視されてしまう部分は否定できません。関係の希薄な友人が多く存在することで満足を得ていることが、後々リスクになる可能性もあるということです。
また「都市」という社会構造の問題もあります。
コロナ禍によって最近は東京の転出が転入を上回る「転出超過」の月も続いていますが、まだ基本的には「東京への一極集中」の状態と言っていいでしょう。コロナ禍が終われば、また転入が大きくなるはずです。それはリモートワークなどネットを駆使した「サイバー・シティ化」が今以上に進んでも同じことです。東京がサイバー環境の中枢として君臨し、多くの人がそこに集まるという流れは続くのではないでしょうか。
東京など大都市は人口密度が高く、さまざまな種類の人間が集まります。そうした中では匿名の人間関係が尊重され、異質な他者への警戒心が生まれます。そうすることで自然と住民同士が「無関心」になります。よく「東京の人は冷たい」と語る地方の人がいますが、それはまさにこの現象によるものであり、決して悪の感情によってなっているわけではないのです。
「アーバニズム」という考え方
この考えは米国の社会学者ルイス・ワースの「アーバニズム」という考え方ですが、逆に「都市下位文化論」という考えもあり、前述のように「共通の趣味」を持つ人とのかかわりが生まれやすく、独特の文化(民族やポップカルチャーなど)がそこかしこで発展する可能性も持ち合わせています。
ただ、「アーバニズム」によって他者とのつながりが希薄になり、アイデンティティを保つことが難しくなることで自殺や孤立、無縁も生まれてしまうのです。個人で考えても、会社内でのつながりすらも薄くなった昨今、定年退職後のサラリーマンが居場所に苦しむ可能性はより増大しているようにさえ思います。
インターネットによって東京に住まなくとも、サイバー・シティの機能で多くの人が「都市にいる感覚」を手に入れることも不可能ではなくなりました。しかし、やはりそれだけの関係では孤立や無縁社会の根本的な解決には至らないのが現実です。どんな構造にも良し悪しはあり、都市もそれは同じということです。
家族を持つこと、信頼できる友人たちを大切にすること、未婚率に歯止めをかけること、地域コミュニティの見直し、助け合おうとする心……綺麗事でしかないかもしれませんが、無縁社会の問題は個人では解決しようがなく、社会全体がこのリスクを阻止する意志を強く持つ必要がありそうです。
(文/谷口譲二)