社会

「フェイクニュース」の見分け方…事実“もどき”を見抜くソース・モニタリングの作法

発行責任者 (K.ono)

 最近になって、これまで以上に注目を浴びる「フェイクニュース」。

情報を受け取る人間の心理的傾向

 新型コロナウィルスの蔓延によって、ワクチンに関するものも含めて真偽不明の情報がSNS上などで蔓延し、それを信じてしまう人も少なからずいたようです。政府関係の公式情報を見てほしいとアナウンスしても、それまでのデマ等情報氾濫が激しく、大衆に刷り込まれてしまうのです。コロナに関しては政府の情報をそもそも信用していないという心理的状況もあるかもしれませんが……。

 コロナに限らず、政治や広告、芸能人の不倫などにおいても真偽不明の情報が蔓延し大きな影響を及ぼす例は枚挙に暇がありません。これは日本だけでなく、世界的な大問題といえるでしょう。場合によっては人命にかかわる事件に発展する場合もあるでしょう。

 さらに、こうしたフェイクニュース蔓延には、情報を受け取る人間の心理的傾向も大きく影響するという指摘があります。

 それが「スリーパー効果」というものです。

 過去に行われたアメリカの実験ですが、まず「信頼できる情報源」のニュースと「信頼できない情報源」のニュースを学生に読んでもらい、そのニュースによって学生の行動や思考の変容を見る、というものがありました。

 読んだ瞬間は、当然ですが「信頼できる情報源」のニュースで変容が起きやすく、「信頼できない情報源」のニュースでは変容が起きにくいという結果が出ました。

 しかし、その「1カ月後」にはそのニュースに対する信頼の差が“消失してしまう”という結果が出たのです。

ソース・モニタリング

 これには、人の記憶が大きく影響しています。人の多くは時間の経過によって「ニュースの内容は覚えていても、情報源については忘れてしまう」のです。これは多くの人が納得のいくところでしょう。

 人が自分の記憶の情報源をしっかり判別する機能を「ソース・モニタリング」といいますが、この部分の誤りを人は引き起こしやすいということです。

 真っ当な正しい(と思われる)情報源よりも、真偽不明の情報のほうが「刺激的」な場合は多いです(芸能ニュースなどがいい例でしょう)。その瞬間はしっかりと判別できたとしても、時間が経てば経つほど情報源の境界は崩れ、単純にインパクトの強い情報が残ってしまうということかもしれません。

 政治の選挙などでも、対立候補への攻撃や批判をする候補者は多く見受けられます。こうした候補者はその瞬間は「不快な人」「自分を棚に上げて……」と思う場合が多いかもしれませんが、それを続けることでいつの間にか思考が批判する候補者よりになってしまうということがあります。ボディーブローのようにじっくりと確かに効いてくるのです。

 もちろん、あからさまにフェイクニュースと理解できる情報であれば判断もつくでしょう。しかし最近はフェイクニュース(もしくは意図的に事実じゃないと思われる方向にもっていこうとするニュース)も巧みになっています。

「事実もどき(factoid)」

 米国の小説家ノーマン・メイラーが生み出した言葉で「事実もどき(factoid)」というものがあります。彼はこの言葉を「新聞や雑誌に現れるまで存在しない事実」と定義しています。つまりはゴシップ、ウワサの類で、信頼性は本来ありません。

 多くのニュース提供者は、明らかな事実の中に上記の「事実もどき」を入れることで、それを真実のように見せるという手法を多く執っています。

 この手法の(提供者側の)メリットはそのニュースを盛り上げたり読者を誘導したりできること、そして「ウソをついているわけではない」という立場に立てることです。大きな事実があれば、そこに多少の「誇張」「行き過ぎた推論」が混ざっていたとしても大きなトラブルになりづらいのです。

 現在はネットニュースに関し著名人などが誹謗中傷や事実誤認として声をあげたりする場面も増えてはいます。しかし「具体的にウソをついたわけではない」と開き直れるという、裁判や罰則を避けるための巧妙なテクニックが見え隠れしています。

 つまり、ただでさえ真実とフェイクが判断しづらい状況が出来上がっており、前述の「スリーパー効果」を引き起こしやすい時代といえるかもしれません。

「ソース・モニタリング」を日々の生活で意識し続けるのは簡単ではなく、人間の心理的傾向を考えても正しい情報を選び、自分の判断材料にするハードルは高いということがわかります。情報の選択に際しては「もともと信頼性の低いメディアや情報源を避ける」努力をする必要があるでしょう。SNSのフォロー対象や読むネットメディアなどを前もって吟味することが第一歩といえるかもしれません。
(文/谷口譲二)