思考

現代の予言書『1984(新訳)』全体主義の恐怖と絶望が再注目される理由

発行責任者 (K.ono)

 時代の転換点になると、不思議と注目されるある作品がある。

全体主義による恐怖を描いた『1984』

 現代は米国と中国など、1947年~91年まで続いた米ソ冷戦の新たな形とも言われているが、ロシアのプーチン大統領や習近平が支配する中国の「独裁制」とい点も過去にはなかった要素であり、日本がどういった動きをすべきかもよく論じられている状況だ。

 現代日本人からすれば「社会主義・共産主義や全体主義」はなかなか受け入れがたいものがあるが、こうした全体主義による恐怖を否定的に描いたのが、英国の作家ジョージ・オーウェルが1949年に書いた『1984』(角川文庫)である。

 今回紹介するのが、令和3年3月に発売になった新装版で田内志文氏の訳。洋書の翻訳、とりわけ古い作品というのは現代の特に若い人には読み難い場合も多い(ハインラインなどは大変)。SF小説はある程度読み慣れないとなかなか進まないという経験の人も多いのではないだろうか。ただ、今回の田内氏の翻訳は非常に読みやすく、文庫の裏表紙の紹介には「圧倒的リーダビリティの新訳」と書かれているが、その言葉に偽りなしである。

 舞台は1984年で、発表された時期を見ると「近未来」。今は2022年なので「過去の話」ということになるが、内容はまさに「現在進行形もしくは近未来」といった趣である。

 同作が発表された1949年は冷戦がはじまって間もないころで、社会主義や全体主義を嫌悪する英米で爆発的に受け入れられた。それだけ全体主義が出来上がった未来は忌み嫌うべきもの、という内容になっており、それが西側諸国の人々の心を打ったということだろう。

過去の記録も歴史もすべて改ざん

 物語は1950年代の第三次世界大戦終了後で、言論、思想、行動までも監視された国家「オセアニア」を舞台とする。世界は他にユーラシア、イースタシアの超大国3つによって支配され、紛争が相次いでいるという状況だ。

 主人公のウィンストン・スミスは、オセアニアの「エア・ストリップワン(もともとはイギリスだった)」のロンドンで「真理省」という“歴史を政府の都合に合わせて改ざんする”プロパガンダの仕事に従事。彼は今でいう公務員であり、階級としては「党の人間」で決して地位は低くない。他にも平和省(戦争)、愛情省(拷問や洗脳)を司る省があり、「ビッグブラザー」と呼ばれる独裁者による一党独裁政権の中で暮らしている。

 過去の記録もすべて改ざんされ、超大国オセアニアになる以前の国々の歴史など「本当にあった出来事」が存在したかもはっきりと国民が思い出せない状況だ。

 そんなオセアニアにおいて、ウィンストンは隠れて「日記」をつけており、これは国における「思考犯罪」で、明らかになれば極刑に処される。ウィンストンは、ソ連の最高責任者であるヨシフ・スターリンをモデルにしたとされるオセアニアの独裁者「ビッグ・ブラザー」の顔が映ったポスターやテレスクリーン(テレビのようなものが一家に一台というあり、ポスターとともに行動を監視し、問題があれば報告され罰せられる)を避けるように日記を書いた。つまり、現体制に疑問を抱いているというこだ。

 このウィンストンを中心に、同じく党に疑問を持つ若い女性ジュリアと“隠れ家”で逢瀬を重ねて性行為をしたり、仕事仲間や友人がある日突然「消える」等、異常な国の中で生き、日記を書く模様が描かれる。一時は「反乱」すらも考えるが……詳細や結末はぜひ、本作をご一読いただきたい。ここからは『1984』の優れた“設定”について語っていきたい。

地政学的なリアリティ、そして「労働者階級の監視はなし」

 同作のオセアニア・ユーラシア・イースタシアの3国だが、オセアニアは「アメリカ大陸・英国・オーストラリア大陸」でユーラシアが「旧ソ連とヨーロッパ」、イースタシアは「中国、中東、日本」で、それ以外の中東やアフリカ地域が3国の「紛争地域」とされる。この組み合わせになったのには当時の時代性もあるのだろうが、地図にして見ると、地政学で言うところのユーラシア大陸の北側「ハートランド(現在のロシアあたり)」と南側「リムランド(海外線に沿った沿岸部)」が思い浮かぶ。「紛争地域」には「リムランド」が位置する。世界の紛争の多くはハートランドとリムランドそれぞれの勢力同士の衝突によって起こる場合が多い。『1984』は現実の地政学でもあり得るような設定になっているのである。

 また、オセアニアにおける異常なまでの監視は「ウィンストンを含む党に近い知識階級のみに行われている」という設定も、非常に優れている。知識を持たない国民の大多数のプロレ(労働者)階級にはある程度の自由が与えられており、ウィンストンはこれを「プロレは放っておいても反乱など問題を起こすことはないと扱われている」と解釈する。大多数の知識のない人間は、知識のある一部の人間の都合のいいように先導され、それを無条件に受け入れるという考えは、全体主義や共産主義に限った話ではないだろう。ひたすらに全体を統制するのではなく「反乱分子になり得る人々のみ」ピンポイントで思想や行動を監視するというディテールのリアリティは凄まじいものがある。ただ、これには党にとって「別の理屈」もあり、それは物語の後半で明らかにされ、読者に残酷な“現実”を突き付ける。

 また、人々の情報を集め分析し統制していく様は、現在のスマホにおける「個人情報の収集と利用」にもつながる。1984年が舞台ながら、この作品は明らかに「今と近未来」に近しい趣を有する作品だ。

 同作は決してハッピーエンドとは言えず、バッドエンドともいうべき終局を迎える。それが全体主義への強い恐怖、嫌悪をより大きなものとしている。社会主義や全体主義に改めてスポットが浴びせられ、『1984』は改めて注目を浴びている。そして、今後の国際情勢の変化によっては、ますます「予言書」としての性質を強めていくのではないだろうか。
(文/山岸善)