技術の進歩や価値観の変化により、日本人の「幸福のカタチ」にも大きな変化がもたらされています。
日本は毎年発表される世界幸福度ランキングでは下位が当たり前になっています。賃金がなかなか上昇せず、社会保障も手厚いとは言えず、政治家も信用ができない……上位を占める北欧とは大きな違いがあるのは事実です(幸福度世界一の常連フィンランドでは、個々人の「幸福感情」という面では1位とは限らないという見解もあります)。
「煩悩」も、最終的には人間関係
少なくとも、今の日本社会を生きていく上での不安はなかなか解消されないことが理解できますが「個人の幸福感情」という意味ではどうでしょうか。
大ベストセラー書籍『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社)には「すべての悩みは人間関係の悩み」としています。仏教における「煩悩」も、最終的には人間関係に帰結することがほとんどです。
個人が幸福を感じるには「人間関係」が不可欠で、それは多くの書籍や評論の見解が一致するところです。むしろ人間関係におけるポジティブな効能からしか、人は幸福を得ることができない生き物です。
つまり、家族や親友など極めて近しい人々との良好な関係や尊敬を得ることが、人間個人の幸福度に直結するということです。家族から褒められたり、周囲から強く認められるというのは、確かに幸福につながります。
一方で、近しい人間と育むのは「愛」だけではありません。愛憎という言葉がある通り、時に人は対人の「憎しみ」などによって計り知れないトラブルや不幸に見舞われることがあります。面倒なことに、人間関係は幸福の源泉であり、不幸を呼び寄せる最大のリスクでもあるということです。
極端な例が「ソロ充」
人間は「得る喜びよりも失う悲しみをより強く感じる」生き物で、ノーベル経済学賞受賞のダニエル・カーネマンは「価値関数」としてこの理論を紹介していまが、同じように「幸福を得ることより不幸を失くす」という選択肢も増えているようです。
その極端な例が「ソロ充」です。
これまでは人間関係をいかに大切にするかが重要視されてきました。ぶつかり合ったり喜び合ったり泣きあったりという、家族や絆の強い友人らとの深い関係性(共同体)の中で生きていくことが“王道”であると。この考え方は今も間違いなく主流であり、それがうまく循環できればそれは素晴らしいことだと思われます。
とはいえ、こうした考えを正直「面倒くさい」と思う人も多いはずです。むしろ前述の“王道”は世間的な建前としての考えで、本音が複雑に絡み合った人間関係に疲れている人のほうが多いのではないかという声もあります。
そんな中、ソロ充は基本的な人間関係を絶ち、ネガティブ要素をもともと失くす人を指します。決して人間関係すべてを遮断するわけではなく、弱いつながりだけで人間関係を終わらせるような人々です。
人間関係を極めてドライな形で享受
家族は作らず独身、親との関係性は最低限で、友人関係も積極的ではないソロ充ですが、恋愛や性欲処理はキャバクラや風俗を用い、SNSなどで集まってスポーツをし、パーティなどその場で仲良くなった人とその場限りで盛り上がる……ソロ充は人間関係を極めてドライな形で享受します。
こうした人は、人間関係をウェットかつ深いものではなく、金銭など感情が生じない枠組みの中で生きています。こうすることによって、人間関係によって生じるネガティブな側面を消し去ることが可能になります。
無論、なかなかそうした生き方を徹底するのは簡単ではありませんし、そもそも選択しない人も数多くいるでしょう。その一方で、IT技術の発展などで人間関係がさまざまなサービスに代替可能であるのも事実です。
独身者が増加傾向にある日本ですが、その一端には「面倒な人間関係の拒否」があるのは間違いないでしょう。いつの間にかそうした考えが主流になる日が来るかもしれません。
(文/町山知宏)