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フットサルは「1人で行く」もの? 都市部の若者が「つるまない」理由

発行責任者 (K.ono)

 フットサルは、スポーツが好きな社会人や学生にとって気軽で参加しやすいスポーツとして有名です。

その場で人数が少ないところに参加

 サッカーほど大きなグラウンドをおさえる必要もなく、ボールとシューズさえあれば基本的にはできます。フットサル専用のコートを貸している場もあります。道具や球場が必要な草野球と比較しても、ランニングなどを除けば参加するハードルが低いスポーツと言えるでしょう。

 一般的な考えとしては「仲のいい友人やSNSで知り合ったフットサルをしたい人たちとチームを組み、近くのコートに集合して参加する」というイメージが強いかもしれません。当然ながらそういった人も少なくないでしょう。

 一方で、都市部になればなるほど「別の参加の仕方」が多くなっているようです。

 それが「決まったチームを持たずフットサルコートに行き、その場で人数が少ないところに参加したり、競技者が抜けたところに埋め合わせで入ったりする」場合が多いというのです。逆に「友人とつるんでやってくるような人たちにはパスを回さない」という特殊な排他まであるとか。

 この現象を紹介したのが、作家の橘玲氏で、著書『無理ゲー社会』(小学館)と『幸福の「資本」論』(ダイヤモンド社)でこの点に触れています。

 年齢も職業も性格もわからない人々がフットサルコートに集まってプレーし、特に関係性を強くするわけでもなく終了後はハイタッチをして解散する……ドライというべきか、極めて希薄な人間関係で成り立つコミュニティがあるということです。橘氏もこの話を聞いて非常に驚いたそうです。

友情という名の「政治空間」

 橘氏は、日本人が友情という名の「政治空間」を重要視しており、そこでの人間関係や権力ゲーム(争い)に生きていると語ります。地方であれば古くからの友情を大切にする「マイルドヤンキー」などがその典型でしょう。彼らは時にその関係性に時に煩わしさを感じつつも、他の人間関係を築く見込みは薄く生活の楽しみもなくなるため、政治空間を保つ必要があります。

 しかし都市部というのはもともと人とのつながりが薄い上、仮に地域の政治空間があったとしても、前述のフットサルのように他に楽しみを見出しやすい豊かな面もあるため、友情や人間関係に苦しむ“義務”がありません。逆に言えば「濃い人間関係を拒否する」傾向にあるということです。

 政治空間の複雑さと比較し、理屈上は感情が入らずドライに貨幣などで関係を代替する「貨幣空間」を楽と感じる人が多いのです。フットサルに至ってはそのドライな関係が貨幣を介さなくても成り立つようになっています。

 都市部では、強いつながりから弱いつながりを重視する傾向が年々強くなっています。日本人は教育も会社もとりわけ集団行動を是とする傾向がありますが、その文化に嫌気がさしている人も決して少なくないということです。

 個人が尊重される時代と言われて久しいですが、個人の尊重は自己責任の強調にもつながります。集団こそ正義だった日本で当たり前とされた会社の年功序列や終身雇用も崩壊し、大多数の人が自分の人生を自分で動かしていかなければなりません。そんな時代において煩わしい人間関係を好き好む人が減るのも十分理解できます。

 橘氏の紹介したフットサルの例は非常にわかりやすいでしょう。今後は自分のもっとも重要な関係性(家族やごく一部の親友)以外の中途半端な人間関係を切り捨てるのが幸福の一つ、と言えるようになるのかもしれません。
(文/田中陽太郎)