社会

『無理ゲー社会』能力主義は正義ではない? 教育の平等というジレンマ

発行責任者 (K.ono)

 2021年に1年遅れで開催された東京五輪の大きなテーマの一つが「多様性」でした。

 東京五輪でも女子選手の衣装の問題や、選手の性的志向の告白、日本代表では、バスケのNBA八村塁選手が日本選手団の男子旗手、テニス4大大会で4勝した大坂なおみ選手が聖火リレーの最終走者を務めたのも、多様性のメッセージを感じさせるものでした。

「能力主義(メリトクラシー)」と「学歴偏重」

 性差別や人種、LGBTQ(性的マイノリティ)等は世界的に大きく注目され、そうした差別は少しずつではありますが減少しているのでしょう。世界の多くの人がこうした差別を忌むべきものと考えているに違いありません。日本でも大坂選手の敗退時に人種も絡めた批判的な書き込みが相次ぐなど完璧ではありませんが、少なくとも「そうした差別は許されるものではない」という認識はマジョリティのはずです。

 こうした人の生まれついての特性や志向など「その人らしさ」を尊重する考えが肯定される一方で、“後天的”とされる部分での差別や格差・分断が進んでいるという指摘も多くあります。

 米ハーバード大学教授マイケル・サンデル氏は自著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)で、日本では作家・橘玲氏が『無理ゲー社会(小学館)で、日米の違いこそあれ同じ指摘をしています。それが「能力主義(メリトクラシー)」と「学歴偏重」です。

 フィンランドの学者フランク・マルテラ氏は「1960年代になって、幸福は社会の目標ではなく個人が自分の責任で追い求めるものになった」としています。個人が幸福を「自由」に追い求めることができることになり、同時に「自己責任論」が強くなっていったのです。

 この「自己責任論」が強くなった背景は“平等”です。日本で言えば誰しも「義務教育」を受ける機会が平等に与えられている点が代表的でしょう。

 ただ、同じスタートの徒競走1着と最下位と結果が出るように、スタートが平等でも個々の能力によってゴールが「公平」ではないのが世の常です。社会人でいえば貧富の差が象徴的ですが、この差が「個人の努力の差が結果に出た」「勝利も敗北も個人の責任の結末」と考えがちなもの。

「素晴らしい社会システム」がジレンマを生み出す

 しかし「教育」の平等は徒競走ほど単純ではありません。なぜなら教育機会は平等でも「親の能力(能力の遺伝)」や「親の収入」、ならびに「家庭環境」など本人にはどうしようもない部分が考慮されていないからです。

 個々人の能力や努力だけでなく、より良い教育を受けられる家庭とそうではない家庭の差がそもそも大きい……こうした実情の中、サンデル教授は「ある才能を持っていること(あるいは持っていないこと)は、本当にわれわれ自身の手柄(あるいは落ち度)だろうか」とし「富は才能と努力の証、貧困は怠惰のしるし」という現代の思想に警鐘を鳴らしており、橘氏もこの意見に賛同する形で著書に触れています。

 これは「富を得た人は正しい人、貧困は間違っている」とも言い換えられ、富んでいる人はともかく、貧困の人すらもその思想を認めてしまっているのが現状です。

 「教育が平等」という一見素晴らしい社会システムが深刻なジレンマを生み出す……富む人が貧困層を心の中で差別し見下し、最大の問題は「その差別が容認されている点」とサンデル教授は指摘しています。橘氏は多くの恵まれない若者の自殺願望に関するメッセージなどを紹介し、日本も米国と同じ分断の中で、社会が「無理ゲー」になっている点を論じています。最近ではポピュリズムによるトランプ政権発足やイギリスのEU離脱(ブレグジット)など、欧米で少しずつ恵まれない人々の反乱が始まっています。

 経済的な成功失敗や貧富は必ずしも努力や才能によるところではなく、生まれた時点での差も大きく影響する現代。経済的な格差と道徳的価値の差はまるでないという、当たり前の思想が社会全体に広がるといいのですが……。
(文/堂島俊雄)