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誹謗中傷厳罰化と日本人「ことなかれ主義」の関係性…バッシング止む日は来るのか

発行責任者 (K.ono)

 近年、芸能人の「不倫」などの不祥事に対して、一時代前よりも強く非難が集まる傾向を感じる人は多いでしょう。

 また、それらの不祥事はネット上などでいつまでもしつこく言及されているようにも感じます。一時代前に比べて、現代はより「潔白さ」を強く求められる世界になっているのかもしれません。

誹謗中傷厳罰化も成立したが

 これらは芸能人だけでなく、私たち一般人にもいえることです。過去の発言や些細な不始末が長くインターネット上に残り続けて、取り返しがつかなくなってしまった、そんな事例を聞いたことがあるはずです。

 13日にはインターネット上の誹謗中傷への対策として「侮辱罪」を厳罰化することなどを盛り込んだ改正刑法が、13日の参院本会議で可決され成立しました。これによってバッシングや誹謗中傷の流れに変化があるとも言われますが、どれほどの抑止力となるのかは不透明な部分も大きいです。

 誰もが誰かの揚げ足を取り、少しのミスも許されない、そんな世の中で現代人は生きているのではないでしょうか

 また、それらの風潮は世界の中でも日本により強く表れている特色なのかもしれません。これは日本人の持つ「ある性質」の高さが大きな要因とも考えられます。それが、ルールを守るという「規律性」です。

 例えば、電車などのダイヤがその最たる例だと考えられます。ほとんどの諸外国では「数分の遅れは当たり前」で運行されている電車のダイヤですが、日本では1分のズレもなく正確に守られています。

 この現象は、「数分ならいいか」を許さない、ルールに厳密な国民性によるところが大きいのではないでしょうか。

 ルールを厳守するという概念は、社会における「常識」という名のルールにも適用されているように感じます。一般的な人生のレールから外れる行為に多くの日本人は抵抗やとまどいを感じるでしょう。

 多様性が認められ、個人の自由が尊重される諸外国であれば、これらの行為には比較的寛容な様子が見受けられることからも、「普通でない」という行為により強い違和感を覚えるのが日本人の特徴とも言えます。

「ことなかれ主義」としての側面

 この日本人特有の常識という「規律性」に縛られた社会が最初に述べた、不祥事への非難の強さの大きな要因になっていると考えられます

 フリーライター・亀山早苗さんの著書「人はなぜ不倫をするのか」(SBクリエイティブ)の中で、宗教学者の島田裕巳さんは、これまで、長らく人々の判断の基準となっていたのは宗教などの「信仰」によるものが大きかったが、現代では様々な宗教が世の中に存在し、その信仰の強さも人それぞれに変化していると語ります。

 それだけ多くの価値観を人々が持っているということは、ルールという存在はとても「曖昧」になっているはずです。つまり現代では、行為の本質的な良し悪しを決める明確な判断は人それぞれに与えられているだと社会といえます。

 逆に言えば、宗教的な判断や戒律がないからこそ個人の判断や、やっかみ、怨根でたたかれるとても恐ろしい世の中になっているともいえるでしょう。

 一人ひとりに委ねられるという社会の変化に同調するように、日本では「きちんとしているか」という日本人特有の価値観で判断する傾向が強くなってきているように思えます。

 またこれらの傾向はSNSの普及も大きな要因になっているかもしれません。SNSをはじめとしたインターネットツールには「匿名」で意見を言えるという特徴があります。常識というルールに縛られた日本社会では、従来は「声を上げる」、「意見を述べる」という行為も控えめでした。

 このような「ことなかれ主義」としての側面も有するからこそ日本社会は健全に回っていた部分もあるでしょう。しかし、匿名性の強いSNSなどであれば、周りを気にすることなく堂々と相手を攻撃することができます。ルールから外れた行為に対して小言を述べたくなる国民性と、自分は逸脱することなく声を上げることができる匿名性が「行き過ぎた見えない正義」を助長しているのではないでしょうか。

 現代社会の流れをみてみると、今後日本では「きちんとしている」というルールから外れてしまった人は今まで以上に激しくバッシングを受ける世の中になりつつあります。罪を宗教でも法律でもなく“人”が罰するという社会が訪れ始めているからです。

 しかし、同時にいつ自分が非難の対象となるかもわからない世の中ともいえます。投げた刃はいつか自分のもとに返ってくるという恐怖心がもう少し広まり、日本人の常識の中に、「相手を攻撃することは損」という考えが根付けば、日本はもう少し生きやすい国になるかもしれません。
(文/名古屋譲二)