先の見えない日本社会。これまで「無難に成功するための最短距離」だったはずの大企業就職にも疑問の声は多い。
「現状維持」を是とする考え
いわゆる優秀な学生たちの就職先は、やはり大企業と公務員だ。そつなくこなせることを是としてきた日本社会では当然のことである。一方、自分で起業したり独立して仕事をする人の大半は、何かしらぶっ飛んだ思考を持っていたり強烈な個性を持っていたりもする。
無論、大企業にも優秀な人はいる。有能で自分の力で道を切り開く人も少なくはない。ただそれ以上に、今の環境に寄りかかり思考停止している人が目立つのも事実だろう。
大企業は多少の業績悪化では簡単には潰れない。多くは年功序列の給与で、年次とともに役職も所得も上昇している。海外の「実力主義」もずいぶんと浸透してきたが、伝統ある企業であればあるほど前述の傾向は強い。結果、居座ることを目的とする(ように見える)社員も増えてくるということだ。
ただ、「現状維持」を是とする考えに多くの企業戦士がなってしまうのは、ある意味仕方のないことといえる。
人間には「現状維持バイアス」がある。人は一度得た環境や状況に関し「現状を変化させたほうが良くなる可能性が高くても、現状を維持し変化を回避する傾向がある」ということだ。得る喜びよりも失う恐怖こそが先に立つということである。
私たちには利得と損失を見た場合、損失を重視する「損失回避性」がある。得られる利が損失の1.5倍~2倍強にならないと利得に目がいかない「損失回避倍率」という研究もある。
実際、利得を得る喜びよりも損失した時のショックのほうが人間は大きいという。利得の倍率が倍程度にならないと動けないのは至極当然というわけだ。
また、一度手に入れた環境は手放したくない「保有効果」も重大だ。手放すことへの抵抗は多くの人が感じたことがあるだろう。
ウォズニアックはHPをやめたくなかった
企業での環境や収入は実生活や人生に直結する。単にモノを得る、失うとは比較にならないほどの重大性を秘めている。そうした人が上記のような状態になるのは情けないことでも問題点でもないのだ。
そして、既存のシステムを守り新しい制度やシステムを拒否する企業や組織そのものも「現状維持バイアス」の影響を受けている。コロナ禍でリモートワークの利便性が取りざたされたが、出社義務の意義をことさら重要視するのもその一つだろう。
ただし、何度も記すがこれは変化することが優れているとか変化しないことが劣っているとかそういった話ではない。
スティーブ・ジョブズとともにアップルを創業したスティーブ・ウォズニアックは、創業資金の融資を受ける際に「融資を受ける条件は、ウォズニアックが今働いているヒューレットパッカードを退職すること」だった。しかしウォズニアック本人はこれに激しく抵抗したという。それは「起業するのが怖かった。HPの社員として働き続けるつもりだった」という。あの世界的起業家ですら、イチ会社員と同じような悩みを抱えていたのである。多くの場合、人は無難な集団を飛び出したり、組織のシステムの問題点を指摘し目立つことを恐れる傾向にある。
また、世界的な成功者の中には「本業は堅実に働き、副業的に自分の好きなことを突き詰めた人の成功例が多い」という考えもある。それは、本業である程度安定することが精神安定を生み、それが副業にも良い影響を及ぼすということからだ。
これらから、今ある現状を維持する思考は、必ずしも否定すべきものではないということが理解できる。
ただ、現状を維持することと「変化させたほうが良い可能性が高いこと」を見つめ、適切に行動することは大切なはずだ。やりすぎて組織から浮いたりつまはじきにされるのはリスクの対価に見合っていないが、少なくともすべてを「これでいいや」とすべきではないだろう。
会社員だからダメ、起業するからすごい、といった分断ではなく「現状維持バイアス」を理解した上で思考を巡らせていくことは間違いなく重要といえる。
(文/谷口譲二)