思考

差別を生む「内集団バイアス」都合のいい解釈が分断を生む…

発行責任者 (K.ono)

 2021年から2022年にかけ、これまで以上に多くの場面で注目を浴びたのが、多数の「差別」だろう。

 もともと古くから問題視されてきたことではあるが、最近はSNSの隆盛やジェンダーにおける多様性を認める流れなどから、「これは~差別ではないか」といった意見や議論がより活発化している。

知らず知らずの内に「小さな差別」に加担

 先の東京五輪でも同様の問題が散見された。開閉会式のプランナーだった人物が過去に「ユダヤ人大量虐殺」のコントをしていたことから降板、開会式で聖火の点火者となった大坂なおみ選手に関するものやメダリスト、各国選手への差別的な言動はすぐにメディアに取り上げられ、その多くが炎上、拡散し議論になった。

「ちょっとした発言でも差別といわれてしまう」と戸惑う人も多いに違いないが、今はそういう時代と受け止めるほかない。差別や中傷への厳罰化を進める動きもあるため、SNS等での発言には極力注意が必要になるだろう(個人的には下手にきわどい発信をする必要もないのでは、と思えるが)。

 一方で「私は差別をしていない」と宣言する人でも、知らず知らずの内に「小さな差別」に加担していることは往々にしてある。それだけ差別というのは人の心理のすぐ近くにあるのだ。

 差別が決して他人事ではなく、自分もいつ加害者になるかわからない。そういった人間のメカニズムを知ることが、少なくとも個々人で差別を少なくしていく大きな一歩とはいえるかもしれない。

内集団バイアス

 その点で重要な社会心理学的アプローチが「内集団バイアス」というものだ。

 この「内集団バイアス」は、自分が所属している集団(内集団)を、そうでない集団(外集団)のメンバーより好意的に評価する傾向を指す。いわゆる「ひいき」である。それは家族など結びつきの強い集団ではなく、関係性の弱い無作為に集められた複数の集団(最小条件集団)内でも引き起こされる強い傾向のようだ。

 誰しも自分の子どもが一番かわいく、一番賢く見えるのもその一要因だが、もちろんそれらは差別ではない。東京五輪において自国を強く応援することも差別では決してない。

 しかし、内集団(もしくは自国)をことさら優位にしようとしたり、外集団の足を引っ張ろうとする行為をした場合、それは差別の“芽”となりえる。自国や内集団の連帯感を高めるために外集団を攻撃するというのは、戦争などでも多く見受けられる。

「帰属の誤り」

 こういった状況を解消するには、「内集団と外集団が協力しなければ解決できない課題を与える」必要がある。漫画などでライバル関係にある同士が、さらなる強大な敵を相手に協力関係を結ぶことがあるが、それも同じ原理だ。

 小さな集団であれば、上記のような対処法もあるだろう。ただ人種やジェンダーの差別、国際紛争などはなかなか「協力しなければ解決しない課題」というのは見出しにくいものがあ

 ただ、少なくとも個々人が「人間差別やバイアスを簡単に引き起こしやすい」という認識を持つことが、今SNS上で起きる騒動を少しでも失くす手がかりにはなると思われ

 内集団と外集団では、それぞれの成功を「内集団は努力や才能の結果」「外集団は環境や運のおかげ」と極端に評価を変える傾向もあり「帰属の誤り」ともいわれている。集団を分断する要素はそこかしこにあるのだ。これは差別だけでなく、自身や他者の力量を正確に計測することができないことにもつなが

 結局のところ、自尊心や自らの幸福のみを最優先する思考が、最終的に分断や差別を生むということだ。人間の傾向を考えると、やはりなかなか解決しがたい問題といえるかもしれない。
(文/田中陽太郎)